2016年6月20日月曜日

鈴鹿峠の前後

新名神と東名阪のジャンクションでの渋滞を回避するのに、最近しばしば国道1号線の鈴鹿峠を通る。歴史の古い峠だけに、近辺に色々面白いポイントがあることがだんだん分かってきたので、寄り道してみた。

上り線を甲賀土山ICで降りるとすぐに土山宿。ここは旧街道沿いに宿場の風情が残っている。町の南端にある常明寺には森鴎外のお祖父さん(森白仙)の墓がある。文久元年(1861年)に藩医として参勤交代のお供の途中、心臓発作で土山宿で亡くなりこの寺に葬られた。妻と娘(鴎外の祖母、母)も遺言で遺骨が同所に埋められたが、昭和28年に津和野の永明寺に墓石だけが移設され、現在は墓誌と慰霊碑が立っている。遠からぬ昔に参勤交代で東海道を歩いたんだなぁと実感されるとともに、そのころは客死してそこに葬られるということもよくあったのだろうと思わされた。
土山宿の東に隣接して田村神社という立派な神社がある。変わった名前だと思ったら、蝦夷征伐で有名な坂上田村麻呂が鈴鹿峠の山賊退治をしたという伝説(太平記に載っているらしい)に由来するとのこと。伊勢神宮の内宮のように、参道の途中から、隣接して流れる田村川の川岸に降りて手を清められるようになっているが、ここの景色が大変良かった。車のお祓が盛んらしく、そのためのスペースが広く取ってある。
鈴鹿峠へは、トンネルの直前で右へ側道に入って(ココ)少し上がるだけという簡便アクセスだが、はっきりした駐車場がない。あまり人も来なさそうなので路肩に適当に駐車。観光的には5m44cmあるという巨大な石灯籠(万人講常夜灯)が有名。
あたりには広い茶畑が広がっていて明るい雰囲気だが、峠自体はそのすぐ先の鬱蒼とした杉林の中にあり、それらのコントラストも面白い。
峠から少し杉林に入ると田村神社旧跡の石碑がある。ここにあった頃は、山賊よけの神様という意味が強かったらしい。(神社があるから山賊が出ない、ワケはないが)
さらに5分ほど行くと、「鏡岩」という岩の露頭があり、「岩面の一部が青黒色の光沢を帯びている。これは鏡肌と呼ばれ、断層が生じる際に強大な摩擦力によって研磨され、平らな岩面が鏡のような光沢を帯びるようになったものをいう。」という説明板があった。鈴鹿峠は近江側はゆるやかで、伊勢側は急坂の断層地形となっており、その断層の動きがこんな岩に反映されるのかと面白い。(あまりにスケール感が違うので誰かが磨いたような気もする)
岩からは伊勢側に急に下っている1号線を見下ろすことができ、峠らしい風景を楽しめる。
峠を下りきって平地に出たところにあるのが「関宿」。ここも西追分から東追分まで1.8kmにわたって宿場の風情が良く保たれている。1年前に来た時には東追分の鳥居の建て替えで、用材を街道に沿って木挽きするお祭りの日だった(行った時にはもう終わっていたが)。今回は鳥居になった姿を見ることができた。
鳥居越しに望まれる伊勢の山々の風情は浮世絵にもなっているが、時代を経てもまさに同じ(右は去年の木挽き祭りのポスター。原画のスキャン画像はここ。広重作の五十三次名所図会の一枚で、有名な東海道五十三次よりも後年に作られたもの。縦長の構図で結構写真的だ。)。この鳥居の用材は、元々は内宮の棟持ち柱だったものが前回の式年遷宮のときに五十鈴川にかかる宇治橋の東詰めの鳥居になり、今回さらに東追分の鳥居になるというリサイクルを経ている。(宇治橋の西詰の鳥居は、外宮の柱に由来し、桑名の七里の渡しの海に面した鳥居になる。よくできた仕組みだ。それぞれ伊勢の国の東海道上の西と東の端に位置する。)
2018年度内には新名神の四日市JCT・亀山西JCT間が開通し、四日市、鈴鹿ICがバイパスできるようになる予定なので渋滞も解消されるだろうが、それまでは、甲賀土山IC→1号線→フラワーロード→306号線→鈴鹿IC→ミルクロード→四日市ICというルートを時々走りながら、今回見た景色を思い浮かべることにしよう。

2016年6月10日金曜日

1946-1949年の日本国

アメリカの鳥類学者Oliver L. Austinさんが1946-1949年の日本滞在中に撮影したカラー写真がwebで公開されている(ココ)。 商売柄、鳥の写真(ハンティングの獲物や、露店に並ぶスズメやツグミのグロい写真も多数)や、山科鳥類研究所の山階芳麿博士や皇室の方々のやんごとない写真も多いが、市井の人々や子供達の生き生きした写真も多数あって魅力的だ。気に入ったものをいくつか再録。文字や服の合わせから裏返しと分かる写真は左右反転した。

ダルマの露店の前に並ぶ子供達。五色の幕が風にたなびく。original
ジープで外人さんが通りかかったと聞いて裸足で駆け出してきたという風情。original
道端で紙芝居。兵隊帰りのおじさんがやってる様子。左の看板の電話番号が淀橋と読めるので新宿界隈か。original
街角の小鳥屋。右端の街灯の柱に「本郷美観商店街」と読める。「壱岐坂上」交差点付近か。画面右手遠景の3階+αの「エチソウ」ビルは現存(ストリートビュー記事)。さすが本郷。original
サンドイッチマン、じゃなくてチンドン屋か。渋谷らしい。右奥の喫茶店ライオンは、今もある道玄坂の店のようだ。現代のストリートビューではここか。original
街角の下駄屋。電柱の広告の株式会社紀文商店は今の紀文の前身。紀文の歴史に「1940年 築地場外に紀国屋果物店開店、のちに店名を紀文と改名。」とあるのと、右端の木の看板に辛うじて「築地小田原町」と読めることから築地市場の近くらしい。original
赤いジープは撮影したAustinさんが乗って来たものらしく、あちこちの写真に写り込んでいる。看板の電話番号が松沢なので世田谷のどこか。original
スズムシ(?)を売るおじさん。この人も兵隊帰りなのだろうか。original

2016年5月15日日曜日

四国の山(3) 石鎚山

役の行者の天狗名「法起坊」のご真言。
山で困ったときに効きそうです。
石鎚山は北側のロープウェイからアクセスした。前回は駐車場横の店で帰りにうどんを食べたなぁと思い出す。14年経ってもほとんど雰囲気は変わってない。ロープウェイ駅までの短い上り坂とか、上の駅から成就社までの林道歩きとか、便利すぎないところが良いのかも。
冬はスキー場のリフトになる観光リフトも乗ってみたが、成就社から外れたところに着くのであまり得はしない。楽しく滑れそうなスキー場だった。成就社の拝殿は正面にガラス窓があり、山頂を拝む形になる。よくできている。ここからはしばらく緩やかに下るが、これが帰りには結構つらい。あたりは主にブナ林。鮮やかな赤い木肌のヒメシャラが目を引く。
時折アケボノツツジも咲いている。試みの鎖と一の鎖は混んでいてパス。両者の間にある茶屋の「冷やしあめゆ」が美味しかった。だんだん近づく山頂部の岩稜が迫力的。
二の鎖、三の鎖を楽しむ。よくある鎖場とは全く違い、太い鉄棒の両端に靴のつま先が入るようなサイズの輪が溶接された50cmぐらいなものが一単位な「鎖」が何本もかけてある。所々にアブミ状の三角の輪も付いている。前も思ったが、鎖が邪魔で足の踏み場がない状態なので自然と鎖の輪っかやアブミがフットホールドになる。登り着いた山頂は「弥山」1972m。一休みしてから細い稜線をたどって最高峰の天狗岳1982m。ここまでは景色がないながら前回も来たが、この日はさらに南尖峰まで行ってみた。↓は天狗岩と南尖峰の間で撮影(左の「THETA」を押した先からは全画面表示にもできます)
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見下ろすとさらに下って土小屋方面に稜線を行く人がいた。地形図を見ると土小屋へのトラバース道の他に稜線通しの道もあるようだ。弥山に戻ってからの下りは巻き道を使ったが、空中に張り出した回廊や階段を多用した歩きやすい道だった。今回は成就社でうどんを食ってからロープウェイに乗った。四国に来るとついついうどん頻度が高くなる。今夜の宿は高知だが高速でずっと移動するのは味気ないので、徳島方向に少し行き過ぎてから、白地(四国の戦略的要地、司馬遼太郎著 「夏草の賦」によると、長宗我部元親が四国制圧のために先ず押さえたポイント)、小歩危、大歩危経由で吉野川上流の風情を楽しんだ。ラフティングガイドの看板が多かった。

四国の山(2) 西赤石山

銅滴。
精錬の途中で滴った銅が
固まったもの。縁起物として
飾られる。
琴平での宿が参道の近くだったので朝めし前に金毘羅さん参りをした。爽やかな空気、小鳥の鳴き声、人慣れたヤマガラが寄ってきたりも。今日は高速道路で新居浜まで移動して西赤石山。登山口は別子銅山の中心地だった東平(とうなる)だ。アクセス道路が狭いが、ビジーな時には誘導の人も立っていて、運転はそれほど大変ではない。元禄時代に開発が始まり、住友財閥の基礎となった別子銅山は、今では閉鎖されているが、元々山の向こう側(南側)にあった。鉱山からの搬出用トンネルや軌道の跡が今も残っている。
東平からのメイン登山道は柳谷コースを経て銅山越と呼ばれる峠を目指す。トンネルがなかった頃はこの峠を越えて鉱石を搬出した道だけにぶ厚い歴史が感じられる。
登るにつれてもう一つのお目当のアケボノツツジが斜面を鮮やかなピンク色に染めているのが見えてくる。









山頂手前から振り返る。禿げた山は西山。
その背後の遠い台形が石槌山。
西赤石山の山頂からは、北に新居浜の町と瀬戸内海、東に岩石累々の八巻山・東赤石山方面、西には遠く石鎚山も見える。











山頂から北方。岩だらけなのがカブト岩。
下りはカブト岩を経て直接東平に降りるルートをえらんだ。
カブト岩は西赤石山の北斜面に広がるアケボノツツジの定評あるビューポイント。普通のツツジは紫っぽいが、この花は本当に鮮やかなピンク色だ。↓はカブト岩の先端で撮影(左の「THETA」を押した先からは全画面表示にもできます)。
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中腹には上部軌道という搬出用の蒸気機関車が走った軌道跡があり、しばし廃線歩きも楽しめる。社宅跡という平地が所々にある。どんな生活があったのだろうか。当時の光景が表示されるVRメガネがあれば面白いだろうな。
下りついた東平では、「東洋のマチュピチュ」と言われる煉瓦造りの鉱石を貯蔵する建物を見たり、西赤石の連山を眺めて楽しんだ。

2016年5月13日金曜日

四国の山(1) 剣山

雪不足のシーズンだったのでGWもあまり期待できなさそうだなと、早々にあきらめて今年は観光+山歩き。四国は最近行ってないし、山も14年前に石槌山に登っただけ。しかもそのときは小雨、ガスの中で展望がほとんど効かなかった。昨年の東北巡業よりは距離も近いので気軽に車で往復と決めた。登る山は、ありがちだが剣山と、願わくば展望のある石鎚山。さてあと一つぐらい、というところでヤマケイの「中国・四国の山」というガイドブックを見ると、西赤石山というのがちょうどアケボノツツジの適期らしい。別子銅山の遺構観光もできるので予定に入れた。
左の丸いのが剣山、右の尖ったのが次郎笈
剣山へは貞光(つるぎ町)から南下。地図で見てもうねうねとした道だが、結構たいへんで、すれ違える区間の方が短いぐらい。特に途中の「一宇」あたりは道は狭い谷底。見上げる斜面には点々と人家が分散していて、なかなか見ない風景だった。そこを過ぎると第1〜第7ヘヤーピンカーブの看板を見ながらひたすらジグザグと高度を上げていく。今は営業していないスキー場を過ぎるとやっと剣山と、隣の山の次郎笈(じろうぎゅう)が見え始める。このペアは形が特徴的で、屋島や鷲羽山からも見分けられた。
可憐なコミヤマカタバミ
登山口の「見ノ越」までたどり着くと、整理のおじさんに「もういっぱいだから、大塚さんまで行って」と言われ、?と思いながらゆっくり奥祖谷方面に降りていくと、だいぶ行ったところに大塚製薬の山荘があってその近くに広い路肩駐車スペースがあった。登山口に戻るだけで結構たいへんだなと思ったが、実はショートカット登山道があって、しかもここが樹々や花の様子がすばらしかった。中途半端なところで路駐して車道を戻るのは損です。
右下の柵が御神水(おしきみず)
あるものは使おうと登山リフトに乗って終点の西島駅からまずは次郎笈方面にトラバース。石灰岩が多い斜面を行くと、剣山の名前の由来とも言われる大剣岩を背負った大剣(おおつるぎ)神社。御神水はくぼみに溜まった状態だったが、すこしトラバースを続けるとホースから流れているところもあった。日陰に霜柱があって驚く。
なだらかな斜面が美しい次郎笈は、剣山より25m低い1930m。
こちらは、次郎笈から見た剣山。ここから見るとあまり丸っこくなく、植生の具合もあって次郎笈と似ているなと思う。剣山の山頂部はかなり広く、ほとんど木道を歩くようになっている。下図は山頂の三角点で撮った360度パノラマ(左の「THETA」を押した先からは全画面表示にもできます)。標高が生まれ年と同じなので愛着が湧く。
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帰りのドライブが長いので一ノ森はパスしたが、両剣神社付近の道が未整備で通行止めだったので、行っても山頂に戻らないといけないところだった。深田久弥によると剣山と次郎笈の並んだ姿は一ノ森からが一番、だそうなので見てみたかったかも。貞光まで往路を戻って、うどんっぽい歯ごたえのある半田そうめんを食べたり、ロープウェイで箸蔵山に登ったり、満濃池を眺めたりしながら、琴平まで行って投宿した。

2016年2月19日金曜日

Canonetのレンズ

1961年発売のCanonet(キャノネット)は、キヤノン初の大衆向けカメラとして爆発的に売れたカメラだが、僕にとっては高校の時に従兄弟にもらって愛用した最初の自分のカメラである。記念に取ってあるが、他のフィルムカメラと同様、長らく撮影には使っていない。以前にも書いたように、レンズ交換式のカメラ用のレンズならば、ミラーレスカメラにアダプタを使って取り付ければ、そのレンズが結ぶ像を撮影することができるが、Canonetのようなレンズ固定式のカメラではそうもいかない(一時、薄い撮像素子をフィルムの代わりにセットすればどんなカメラもデジカメになるという装置が開発中というガセネタが流れたことを今思い出した)。しかし、ありがたいことにそういうレンズを取り外して、ミラーレスで使えるように改造して販売している会社(King-2)があり、まさに僕が使っていたCanonetと同じ形式のレンズを見つけたので買ってみた。
右がCanonetカメラ。左が改造Canonetのレンズをミラーレスカメラ(SONY NEX-5N)に取り付けたもの。たまたまレンズの直径がカメラのマウントとほぼ同じでよく似合っている。レンズの周りにあるガラス突起の行列は光の強さを測るセレン窓だ。セレン素子に光があたると電圧が生じる性質を利用しているのだが、広い面積が要るのでこんなに大仰なことになる。ただし電池が要らないという利点もある。Canonetはダイヤルでシャッタースピードを選んでシャッターボタンを半押しすると、セレン窓にあたった光に応じて適切な絞りが選ばれる仕組みになっていた。左のようにレンズだけにしてしまえば、セレン窓には何の意味もないが、時代を象徴する装飾として気に入っている。
数字的には45mm F1.9というレンズで、発売当時としては、手頃な値段のわりに上等な(直径の大きい=明るい)レンズだ。写りも上々(左はF4での撮影)。ただしNEXはフィルムよりも小さい範囲しか撮影していない(レンズはたいてい中心に近いほどよく写る)。それにしても、元のCanonetにフィルムを入れて撮ってもこんなにきれいには撮れないはず。
Canonetは連動距離計式なので近いものを写すときには、焦点合わせ、フレーミング共に苦労した。左は絞り開放で最短距離(約60cm)での撮影だが、Canonetでは撮ろうとも思わないだろう。右の方の「ボケ」がざわざわしてるのは廉価版レンズの限界か。
ここからは高校生の時の山歩きでCanonetで撮った写真から。もちろん当時でも既にカラーフィルムが普通だったが、敢えて基本はモノクロとか言って、いろんな色のフィルターを使ったりして試行錯誤を楽しんでいた。確か、三郎ヶ岳という奈良県の東の方の山でのもの。これはたぶん黄色とかオレンジ色のフィルターで雲をくっきりさせたんだと思う。
これも同じ時のもの。手前と遠くの山が明るいのに、中間が暗く曇っていて面白かった(んだったと思う)。真ん中の三角は高見山。だいぶ後になってからスキャンしたので、ネガのホコリや傷が目立つのはご容赦。
当時よく付き合ってくれた、H君とN君。N君は今でもFaceBookのお友達だ。H君はどうしてるかな。

2016年1月12日火曜日

上越国境のWinter Wonderland(3)

苗場は混雑がひどそうだし、さて最終日はどうしようかと、地図とWebであれこれ研究した結果、なんだか面白そうな上越国際スキー場が帰り道にあるのでそこに決定。低い丘陵地に作ったスキー場で、水平方向にやたら広がっている。地形図やコース図を見ても、どうなっているのかよくわからない。石打の少し先からトンネルを抜けて当間(あてま)ゲレンデの駐車場からスタートする。

第1リフトに乗って上がっていっても次のリフトが見えない。なだらかな丘陵が続くばかり。終点から矢印に従って下がっていった所から始まる第2リフトは、やはりゆるゆる登る。第3リフトは、なんと、連絡リフトになっていて、小尾根を越えてどんどん下がっていく(左図)。遠くに見えてきたのがどうやら第4高速リフトのトップらしい。やっとスキー場らしくなってきたと一安心。
第4リフトの山頂駅はなかなか洒落たレストハウスになっている。お茶でもと思ったけど、人はおらず自販機のみなのがちょっとさみしい。今日は雪のちらつく曇り空で遠望は効かないが、晴れていれば巻機山や八海山、米山などが見えるとのこと。東北のひなびたスキー場を思わせる雰囲気だ。第4リフト下のレストハウスは営業していて賑わっていた。
他のエリアへも行けるらしいので、連絡リフト(左図)で移動する。連絡リフトは、向こうから乗ってきた人とすれ違うのでこのような見慣れない光景となる。
南側のゲレンデを降りるにつれて雪不足となり、林道コースをえんえんと滑ったりしながらやっとグリーンプラザホテル前にたどり着いた。白馬コルチナでお馴染みのデザインの建物群。さっきの当間の建物もこの共通デザインだったのだ。このスキー場の食堂ではなぜか富士宮焼きそばが注文を聞いて作るようになっている。コテさばきはなかなか良かったが900円はちょっと高い。

5時間券でたっぷり楽しんで帰路についた。結局3日とも、スキー滑降というよりも水平移動を楽しんだ形だ。飯山の道の駅(花の駅)から眺める戸狩スキー場と手前の田んぼのコントラストが、小雪の今年を象徴する景色だった。

上越国境のWinter Wonderland(2)

2日目はいよいよ苗場。ここでも苗場、田代、神楽と三つのエリアが繋がっているので、共通券でかぐらのリフトトップと和田小屋を目指す。
苗場のトップは筍山だが少雪で山頂へのリフトはまだ動いていないのは残念。「苗場スキー場」だけど山頂に上がらないと苗場山が見えないのである。フラットで硬すぎない大斜面ゲレンデ(そういう名前なのです)を堪能し、まだ小石も散らばる連絡路をどんどん下って隣の田代エリアに向かう「ドラゴンドラ」に乗る。全長5.5kmで20分かかるという長大なゴンドラ。

これは帰りのゴンドラからの眺めだが尾根や谷をいくつも越えて延々とほぼ水平移動していく(正確には400mほど上がるのだが印象は横移動)。
ドラゴンドラ - Spherical Image - RICOH THETA

途中、ぐんと下がって川のすぐ上を通る。こんな眺めがあるゴンドラはかなり珍しい。紅葉シーズンにも観光用に動かしているそうだ。


田代エリアからは苗場山が見える。右が神楽峰、左がテーブル状の苗場山の端っこ。夏は神楽峰を経てこの険しい尾根をたどるのがポピュラーコースだが、僕らは昨秋に裏側の秋山郷から登った。人は少ないが登山道がほぼ全面ぬかるみなのは参った。

神楽エリアの和田小屋でソースカツ丼とけんちんうどんの定食Aで飽食した後、リフトトップに上がる。知らなかったが最上部のリフトは12:00で営業終了だそうで、運良くぎりぎり間に合った。ここから神楽峰に登るのがポピュラールートなので、遅い時間から山に上がらないように、ということなのだろう。少し柵の外にでてパノラマ撮影。ダム湖は田代湖。その右手一帯の低い丘が田代エリア、背後の白いのが平標山。その右端の黒い山が苗場エリアトップの筍山。たいへん遠いところを無理矢理つなげていることが良く分かる。

かなりリフト待ちが出てきた田代エリアを横切ってドラゴンドラで苗場エリアに戻るとこっちはさらにたいへんな混雑。ゲレンデもあちこちで枯れ草が露出してかなり悲惨になっていた。ほんとに今年は少雪だ。

上越国境のWinter Wonderland(1)

中部地方からはなかなか行く機会のない上越国境エリアだが、一昨年秋に大源太山、八海山、谷川岳、昨年秋に巻機山、苗場山に登ってかなり土地勘ができたので今回はスキー場巡りを試みる。どこも初めて行くスキー場ばかりだ。メインはバブルの聖地、苗場だが、前後に別エリアを選んだ。 愛知からは長野・飯山を通って十日町の手前で一山越えて湯沢を経由するルートとなる。一昨年秋、印象に残った湯沢高原の166人乗りロープウェイに乗るところから始めることにした(ロープウェイ駅のすぐ下にある1日500円の町営駐車場を利用)。あまり予習をしなかったので、リフト券売場で初めて三山共通券(湯沢、GALA、石打丸山)があることを知り、小さな湯沢で一日は持て余しそうなので迷わず共通券を選択。
湯沢ロープウェイ - Spherical Image - RICOH THETA

ロープウェイの中でTHETA撮影。ゴンドラというより部屋が動いていく感じだ。スキー場はやはり小規模で、雪がようやく降ってまともに滑れるようになったばかりらしい。BGMに演歌が流れているところが鄙びている。3本ほど滑って早速GALAへの水平移動ロープウェイに乗る。ロープウェイは2つとも20分間隔の運行。こっちは普通のロープウェイ。 (画面をマウスで動かすとあちこち見回せる。+、−で拡大縮小。 左の「THETA」をクリックすると更に大きいウインドウが開く。)

のどかな湯沢と違ってGALAは結構混雑している。ボトムでは妙に人が溜まって見えたが、立ち止まっている人が多いのでそう見えるだけで、滑ってる人は普通に流れていたのでリフト待ちも大したことなし。新幹線駅からいきなりゴンドラで上がるとここに着くのだから、気持ちの切り替えに少し時間がかかるのかも。

石打丸山へは普通にリフトで連絡。ここまで来てやっと普通のスキー場に来た気がした。オーストリアからトニー・ザイラーやルディ・マット、フランツ・ホピヒラー教授らが来てデモをした歴史が語られていた(名前はコース名として永久に残ると書いてあるが、現在はホピヒラーコースしかないみたいだ)。由緒あるスキー場はコースレイアウトも無理がなくいいものだ。
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石打丸山の大丸山ゲレンデ沿いのリフトから。下界の眺めが湯沢エリアらしい。雲がかかった山は飯士山。
また、GALAを横切って湯沢に戻り、下山コースは開いていないのでお座敷ロープウェイで下界に戻った。